新世界より 25話(最終話)

まず一言。いい最終回だった。3部の26歳編になってからは、これまでの伏線や積み上げてきたものが生きて本当に面白かった。
ただ、放送の時間帯がひどい、蒔いた種が花開く26歳編までアニメだと4ヶ月かかるというのが足を引っ張った作品だった。原作の小説は、一番早く発売されたのが上下巻で同じ日に発売だから、1000ページほどあるけど頑張れば数日で読み終わる。でも、アニメだと間延びしすぎて途中で切った人もかなりいただろうなあ、惜しい。

マリアと守の子供との決着はかなりあっさりついたな。まあ、正体を探るまでがクエストって感じか。やはり、キシ機構が人間にではなく、バケネズミに対してはたらくってことだったのね。そして、娘だったんか。奇狼丸は自分が捨て駒になることで事態を打破できるってのを快諾したんだなー。それも、女王、そして女王が生み出してまた栄えるはずのコロニーのためか。つまり、奇狼丸は最後まで自らのコロニーのために戦った。それは社会性の動物としてはある意味当然の姿でもある。まあ、奇狼丸は勇気や強さ、義理堅さなど全ての面でハイスペックだったが。

それに対して、野狐丸ことスクィーラは、確かに姑息だし卑劣で権力欲も確かにあったはず。でも、様々な知識を得たことで、コロニーのためではなく、バケネズミのために戦った。その作戦は冷徹なものが多かったが、呪力という強大無比な力を持つ人間に対してバケネズミの種としての存亡を賭けた戦いということを考えると、確かにスクィーラはバケネズミの英雄ではあった。最後まで命乞いをしなかったことは個人的に評価したい。もちろん、命乞いをしても無駄だと分かっているからこそでもあるだろうけど。以前のスクィーラだったら、早季と覚だけがいるときに何かしら持ちかけたりしていたと思う。

で、バケネズミの真実が分かると、あれだな、非常に複雑だ。そこまで人間は、というか力を持つ人間はやったのかと。いや、呪力を持たない旧人類と呪力を持つ新人類と考えると、もはや種そのものが違うって考えも出てくるだろうな。だからこそ、外見すらも変えるという残酷な手段も取れたと考えられる。覚が「バケネズミを同じ人間と思えるか? 思えないだろ」ってな感じの台詞があったけど、まさにそうなんだろうな。
スクィーラの「我々は人間だ!」という叫びは、図書館から知識を得ていたのか、それとも呪力の有無だけでここまで立場が違うことへの無念が叫ばせたか。長い時間を経て、旧人類が新人類に反旗を翻したが、力及ばなかった。そう考えるとちょっと切ないものもある。旧人類の立場から考えると。
この作品のキャッチコピーの絵って、登場人物は早季とスクィーラの二人だけで、離れた場所で立っているんだよね。なんでスクィーラ? ってのは最終回を見て納得した。そしてキャッチコピーが「偽りの神に抗え」ってのがまた。まるでスクィーラが主人公だ。