安楽死とセデーション

1週間ぐらい前の週刊朝日にオランダで安楽死を選択した(この記事の例は、正確には安楽死ではなく、延命処置を中止して意識レベルを下げることによって苦痛を感じなくさせるセデーションというもの。もちろん、重篤の患者ならばそのまま息を引き取る間接的安楽死安楽死は手続きに1箇月かかるので苦痛が長引いてしまうらしい)人の記事があった。「モルヒネを打ったら苦痛はひいてやがて眠るように意識がなくなっていきます。そのまま目覚めることは二度とありません」みたいなことを医師に言われて何度も意思確認される。それでも、セデーションを選択する意思の強さに一種の感動すら覚えるというか。眠るとき、このまま二度と目覚めなければそれはそれで楽なんだろうなーと思ったことは何度かあるが、それも冗談交じりであり、本当に二度と目覚めることはない=死を迎えるということを自覚しながらそれを選択する凄まじさというか。余命1箇月、激しい苦痛という状況であることが大きいのだろうが、それでも一個の人間の死というドラマ(この表現では不謹慎に思われるかもしれないが)の大きさに圧倒されるというか。
これを読んで、アニメや漫画とかの重要人物の死、安易な感動手法で嫌いだけど、それでも深く心を動かされてしまうんだよなーということを考えた僕はだめぽ。とても色々なことを考えさせる記事だというのに。