貧困などについて

生きさせろ! 難民化する若者たち

生きさせろ! 難民化する若者たち

これは前にもここで紹介した本だけど、今日はここからいくつか引用してみる。

NPO法人自立生活サポートセンター・もやう事務局長 湯浅誠氏のインタビューより
中略
「前提として、日本には貧困線というのがない。どこからが貧困なのか公式発表がない。これが大問題だと思います。たとえば生活保護を受けるべき人がどれだけ受けているかを政府は七〇年代まで調査していました。でもこれをやめてしまった。だからいま、どれだけの人が生活保護を受けるレベルで暮らしているのか誰も知らない。グローバルな基準はOECDが作っている貧困率調査というのがあって、それは国民の所得の中央値の半分が貧困であるという定義です。日本の場合は世帯所得の中央値が476万円ですが、この半分は238万円。だから年収238万円以下は貧困なんですよ。フリーターはほとんど入る。
 また、OECD調査では、日本の貧困率は15.8%です。00年度で。いまはもっと増えていると思いますが、一億二千万人の15.3%って1800万人。貯蓄ゼロ世帯は23%です。そのなかで生活保護を受けているのは150万人。たとえば1000万人生活困窮者がいるとしても、850万人が受けていないんです。生活保護でよく不正受給とかいわれていますが、150万人いれば100人や200人は絶対いますよね。だけどそこは完全に世論操作で、そこをすごく大きくいうわけですよ」
中略
「自己責任論は、自分のストレスや社会の矛盾を自分自身に向けさせる、もっともコストのかからない、もっとも安上がりに貧困を見えなくさせる手段です」

OECD調査についてはたびたび書いているからここでは省略。とにかく、不正受給は大きく報道されるけれども、漏給問題(生活保護を受けるべき状態なのに受けていない)についてはほとんど触れられないこと。これはかなりアンフェア。後者の方が圧倒的に多いのに。漏給率は80%という調査もあるぐらいなわけで。
ここでよく言われるのが、238万円もあれば貧困とはいえない、もっと苦しい人は世界中でいくらでもいるという意見。必ずすぐに言われる。そういった犠牲の累進性については後述するとして、一般的な人の生活レベルを考えて、たとえば冠婚葬祭用の礼服を用意する、知り合いが結婚したらご祝儀と引き出物を用意する、子供たちにきちんと机や文房具を用意する、一日三食栄養のバランスを取れたものを食べる、年に1回ぐらいは旅行に行く、もちろん友人づきあいや会社の付き合いなどで飲みに行くなどで金がかかることもある、などなどを普通にできるかどうか。さらに深刻なことを言えば、病気になったときに病院に躊躇なく行くことができるかどうか。今では国民健康保険が払えなくて、手遅れになるまで医者に行くのを我慢するというのが普通にある。これも実はとても大切なこと。金がないからそういったことを控えるという時点で、それは貧困と考えなければいけないわけだ。
貧困という言葉は日本では忌避されてきたからまだイメージがわかないかもしれないけど、そういった身近なところから貧困が出てくる。238万円だって、手取りでもらえる金額になるともっと少なくなる。日本の場合住居費が高いから、ますます苦しくなっていく。憲法25条で保証されている健康的で文化的な生活はどういうものか? それをもっと考えなければならない。風邪を引いたらアウトという日雇い労働者の生き方が放置されていることはおかしい。

社会学者・入江公康氏のインタビューより
「『小さな政府』って国家権力が小さくなるからいいんじゃないのって考えると思うんですが、逆ですよね。国家権力が小さくなるのではなく強力になる。福祉や社会保障は切り捨て、端的に警察・軍事が強くなっていくのだと考えればいいのでは。社会保障を必要とする『弱者』など経済競争には必要ない。つまりお荷物。だから社会保障などなくしてしまえ。別に死んでもいいし、歯向かうようなら容赦なくとり締まっちゃう、弾圧しちゃうってことですよね。
 小さな政府の本質とは、だから『病気しようがケガしようが失業しようが食えない賃金だろうが知ったことじゃない。なんとかできないなら迷惑かけずに死んでくれ』ということでしょう。『小さな政府』を権力が小さくなるいいものみたいに思って支持しちゃう人は、だから罠にはまっています。だってそうでしょう。ネオリベラリズムを強力に進めているのがほかならぬ当の政府なんですから。労働力は、労働市場ではあくまで商品ですから、社会保障というものはそこから離脱することを可能にする。これでは値下げの競争を強化できない。こういうのを脱商品化といいますが、『小さな政府』はそうさせないようにするわけです」
中略
「『家族が大事』というふうに、やたら強調するきらいがあります。たとえばフリーターが自立していけるだけの賃金をもらっていないのに、なぜ路頭に迷ったり餓死しないで生きていけるかといったら、親が面倒を見るなり家を持っていたりするからです。政府や企業はそこまで見ています。賃金が下がってもまだ生きていけるからいいんじゃないと。つまり家族なるものを底辺労働力のプールとして利用しようということですね。だから家族は大事だといいたがる。あるいは家族を過剰人口、つまり失業のプールにしている。そういうクッションとしての役割。こちらとしては、個人として当たり前に自立できる賃金をきちんと支払えということをいうべきでしょう」
中略
「自己責任と言うことをいって誰がまず得をするのかを考えないといけないですね。誰がそれを強調しているのか。それはどういう動機にもとづいていっているのか」
中略
「破滅を待望するような。焦りや憤懣のないまぜの感情が負のかたちで出てきて、そういう自己責任論を積極的に受け入れる土壌になる、というのはわかります。でもそれは足を引っ張りあうだけでもありますね。皆、そういうことには気づいているはずなんですけど、でもなかなか受け容れがたいという部分はあると思います。逆に破局が来れば、俺もやり直せるというような考え方も出てくるかもしれない」
中略
「『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論)の編者のひとり、白石嘉治さんが最近問題にされています。たとえばこういうことです。『おまえの置かれた状況などは、ほかのもっと貧しい人や大変な人に比べたら何でもない。たとえば第三世界を見てみろ。日本は先進国で豊かだ』みたいないい方ですね。こういう物言いによって問題から目をそらせ、現在その人が置かれている困難を呑ませようとする、そういうやり口や雰囲気を『犠牲の累進性』と呼ぼうじゃないかと。もっとほかに大変な人はいるだろうけど、実際その人の生活はキツイんだから、そのひどさに関して率直に訴えたって全然いいはずでしょう。でも、そうやって現状の問題点を覆い隠していってしまう。ネオリベのやり口というのは、この『犠牲の累進性』を最大限活用しているんじゃないかということですね。正社員の長時間労働よりも非正規の低賃金が、非正規の悲惨な労働よりもホームレスの苛酷な生活環境のほうが、日本のホームレスよりも第三世界のスラムの貧民のほうが……というかたちでひたすら我慢を強いる。そうやって追い込まれたり、自分を追い込んだりする。でも日本だろうがアメリカだろうが、餓死したり、死ぬほど働かされて賃金もらえなかったり、奴隷のように扱われたりしていれば、それで死んじゃったりすれば、そこはもう『第三世界』と同じなわけでしょ。なんでもそうなんですが、そのようにいうことで得するのは誰か、それを強調するのは誰なのか、そのようにいう動機は何にもとづいているのか、ということを認識すべきですよね」

長い引用になったけど、これはとても重要なことだと思う。特に、最後の犠牲の累進性。こういった反応が気持ち悪いほど多く見られるんだよね。で、そういう主張をする人がどういう生活を送っているか。たぶん、非難している対象の人と変わらないことも多いんじゃないかな。俺はこんなに苦労しているのに、あいつは楽をしようとしやがって、許せん! みたいな。そういう足の引っ張り合いを見てほくそえんでいるのが誰なのかをもっと考えなければならない。